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2011年8月17日 (水)

泊原発、営業運転再開か・・・

今朝の読売新聞に、定期検査の最終調整運転を続けていた北海道電力の泊原子力発電所3号機について、北海道知事が営業運転への移行を容認する方針を固めたという記事がありました。

4日前の終戦記念日、福島県浪江町の漁協支所長、叶谷守久さんが東京・日比谷公園の檀上で「原発事故さえ起きなければ、復興への第一歩を踏み出せていたでしょう」、「補償金なんかいらなかった。貧しくても、幸せな生活をしていたかった」と語る記事もありました。

後者の記事は、東京電力福島第一原発事故の影響に苦しむ同県内の農林漁業者2800人が賠償を求め、近くの東電本社までデモ行進を行ったことに関連して、漁協支所長が原発マネーに踊らされた実情を語っていました。

叶谷さんは1965年から、泊第一原発近くの漁場権消滅や温排水の影響を容認する代わりに東電から補償金を受け取るようになりました。最初の支払いで200万円(現在の価値に換算)、その10年後には第二原発建設に伴う補償金1000万円(同)余り。それを生活費の不足や船のエンジン交換に当てました。

温排水の悪影響はあまりなく、むしろ水温の上昇でコウナゴやシラスなどの小魚が増えたと喜んだそうです。また原発立地に伴い岸壁も整備され、補償金で購入した大型の船がひしめく様子に、「原発がきて良かった。被爆国が作るのだから危険はないはず」と考えるようになりました。

第一原発7・8号機の増設には、当時の組合長だった叶谷さんが代表として交渉し、総額121億円で合意。漁師たちには一人当たり数千万円が配分されました。叶谷さんも新しい船を買い、自宅を増改築。家を新築した人も多く、漁が終わると繁華街までタクシーを飛ばし、飲み歩く漁師たちの姿もよく見かけられました。

震災の日、叶谷さんは妻を車に乗せて山へ向かいましたが、車を降りて妻の手を引いた瞬間、巨大な波に飲み込まれ、叶谷さんは骨折、妻は行方不明ののち遺体が確認されたそうです。叶谷さんは今も申し訳ないという思いにさいなまれています。

補償交渉の際、原発増設に反対する漁師らの説得に当たった、山形武さんの妻も6月に変わり果てた姿で発見されました。「結局、彼らが正しかった。金に目がくらんでいた・・・」と後悔する言葉を口にします。

漁協組合員約220人のうち約30人が死亡・行方不明。避難生活を送る漁師たちも海に戻れる見通しはありません。

叶谷さんはいいます。

「戦時中、浜に米軍の艦載機による機銃掃射があり、家族と川に飛び込んだ。パイロットの顔が見えるくらい敵機が近づいた記憶がある。翌日逃げ込んだ山からみた町は一面焼け野原だった。戦後には、手こぎの船しかなく、漁獲量は限られた。海水を窯で煮て塩を作り、農家の作物と交換する生活がしばらく続いた」

「あの戦争だって、こんなに酷くなかった」

故郷で家族に囲まれ、漁に支えられて、貧しくともつつましく暮らしたいというささやかな願いが、原発によって打ち砕かれたのです。これが震災だけなら、また漁に出られる日もやってきたでしょう。しかし相手は人間の手には負えない放射能です。

ある方がこの震災+人災を、文明災といいました。まさに、愚かな人間が欲のために起こした災害のようにも感じます。

北海道知事には、この国は自然災害の多発国であり、いつ文明災が起こってもおかしくないことを思い出していただきたく思います。そして被災された当事者の方が、戦争より酷い状況と語る言葉に耳を傾けて欲しいです。

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